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未来には幅がある

未来には幅がある

入院中や外来診療と同様に,在宅療養中もたくさんの選択の連続だ。患者・家族は治療法の選択,薬剤の選択,療養場所の選択,介護サービスの利用など…と数多くの選択を迫られる。たとえば,患者の病状が思わしくない時に今後どのような方針で療養を続けていくかという大きな流れを話し合う場合もあれば,また,特定の医療行為(点滴や胃瘻など)を実施するかどうか,そのタイミングについてなど細かい判断に関わる話し合いをする場合もある。

旅立ちの時は,本人が決めると思っています

死に目に会うという言葉があります。どの時点を指すのかは,筆者には分かりませんが,息を引き取る時に側にいることなのかなと漠然と思っています。たぶん,一般の人々の最期のイメージは,何となくですが,みんなが側にいて,患者さんが眠っており,呼吸が止まって,心電図モニターがフラットになり,医師が頭を下げて,「ご臨終です」と話している場面なのかなと思います。ただ,実際は,いつ亡くなるのかは誰にも分からないですし,心電図モニターをつけていても,心電図の波形が変わって30分ぐらいで心停止することもあります。ご家族に電話をしても病院に来るまで,1〜2 時間ぐらいかかることも珍しくありません。また,筆者は在宅緩和が専門なので,ご家族が朝起きて,気がついたら患者さんが永眠している場合もあります。そのようなことを想定して,筆者は「旅立つ時は,患者さんが決めると思っています」とあらかじめ説明しています。

とてもいい先生ですよ

この言葉は,病院から在宅緩和ケアへ移行など医療連携が行われる際に,患者や家族に安心感を与える言葉である。病院から在宅緩和ケアへ移行となると,患者や家族は担当医や病院とのつながりが切れてしまうことを恐れる。「いい先生ですよ」は,単に連携先の医師を保証するだけでなく,医師同士の顔の見える関係も伝えることができる。医師同士のつながりが伝われば,患者や家族は在宅移行後も今までの担当医とのつながりは切れないと察し,安心するのである。
多くの患者や家族にとって今までの担当医や病院と離れるのはつらく不安な体験である。通常,患者や家族は今まで一緒に病気と闘ってきた担当医や病院をとても信頼している。担当医や病院は存在そのものが患者にとって大きな心の支えでもある。そのため,そこから離れなければならないつらさや不安はしばしば「見放された」という言葉で表現されることがある。担当医や病院への信頼が強いほどそうかもしれない。

ひとりで抱え込まないでね

がんと診断された瞬間,今まで生きてきた世界がまったく別の世界に変わってしまう。命に有限性があることを急に目の前に突きつけられ,将来への希望が絶たれ,未来が見えない出口のない混沌とした世界に,たった1人放り出されるのである。その苦悩の中,がん患者さんはさまざまな選択を迫られ,いろいろなことを一時的に,あるいは永久的に手放したり,自分の価値観そのものの優先順位を変更し,新しい生き方を模索しなければならなくなる。

お家に帰って何かしたいことはありますか?

私は,すべてのことを決める権利は患者さんにあると考えています。これからの治療をどうするのか,どこで療養するのか,どのように生きるのか,最期をどうするのか,どこで最期を迎えるのか,などなど,すべては患者さんの意向が大切だと思っています。そして,人間誰しも何かをしたい時には,それ相応の理由があるものです。残念ながら治らない病気になって病院に入院している患者さんが,「家に帰ろう」と考える時はなおさらでしょう。
日頃,入院先の病院からわれわれのところに「看取り目的の退院です」と記載された紹介状が送られてくることがよくあります。しかし「死ぬために家に帰る」という患者さんはおそらく少数派ではないかと筆者は思います。「看取る」という言葉の主語は患者さんではありません。多くの患者さんは,家で精一杯生ききった結果として,在宅でわれわれに「看取られる」ことになるのではないでしょうか。そして,患者さんが「家に帰って最期まで精一杯生ききる」ために在宅緩和ケアを選択する時,彼らは一体どんな希望や願いをもっているのでしょうか。

人は生まれてきたからにはいつかは死にます

筆者は,緩和ケア病棟で14年あまり患者さん・ご家族と関わらせていただきました。現在は外科病棟に異動し,2年になります。緩和ケア病棟で患者さんを受け入れる側の経験と緩和ケア病棟に患者さんを送る側の経験の両方をしています。
がんと診断されたその時から緩和ケアを…といわれてはいますが,実際には,まだまだ浸透はしていないのではないのでしょうか。手術・抗がん剤治療・放射線治療を行い,治療が難しくなってから緩和ケア病棟に移行することが多いように感じます。「緩和ケアを勧められた」,「緩和ケア病棟に行く」ということは,(山口市の地域性なのかもしれませんが)多くの患者さんや家族にとっては,「ついにその時が来た…」,「緩和ケアは死ぬところ,最後に行くところ」というイメージをもっておられると筆者は感じています。実際に,外科病棟の患者さんが自ら緩和ケアを希望されることはほとんどありません。

どんな状態でも家には帰れますよ

普段自分がよく使う言葉を思いつかなかったので,前職場の同僚に助けを求めた。頻度が高くかつインパクトに残っている言葉として挙げられたものに「どんな状態でも家には帰れますよ」があった。この言葉の意図するところは,あきらめないで,選択の幅を勝手に狭めないでください,ということである。入院療養計画書には必ず入院目的が記載されているが,目的達成の評価が曖昧なまま,あるいは目的修正の話し合いがもたれないまま入院継続していることも少なくないように思う。ADLの改善や病勢のコントロールが困難な場合など,いわゆるバッドニュースの共有が先延ばしになっている場合などである。

ご本人はどう思ってるのでしょうね。家でも病院でも,できること(すること)に大きな変わりはありません

在宅ターミナルケアの条件として,(1)本人が在宅ケアを望むこと,(2)家族が在宅ケアを望むこと,(3)症状がコントロールされていること,などがいわれている。今回,魔法の言葉として取り挙げた「ご本人はどう思っているのでしょうね」は,(1)(2)の条件である患者・家族の思いを確認する時に使用できる言葉である。この言葉をきっかけに,患者の思いだけでなく,家族の考えや患者に対する思い,在宅療養への理解などを知ることができる。たとえば,患者は家に帰りたいが,家族は不安が強く入院を希望しているといった患者・家族の思いの違いなども分かることがある。
われわれは患者の思いに添って目標を立て,いろいろな調整を図ろうとするため,患者本人がどのように思っているのか,それを家族がどのように捉えているのかを確認していくことはとても大事なことだと考える。

病気のことはどのように聞いていますか?(2)

ごく当たり前の問いかもしれないが,医師から説明されている内容と,患者の理解が一致しているかどうかを確認し,今後の生活をどのようにサポートできるのか患者と家族と一緒に考えていくために使っている。
患者が病気のことをどのように聞いているか,どのように理解しているかを聴いていく中で,患者自身の病気のこと,病気になってから過ごしてきた経過や思い,これからの生活に対する思いが語られる場合も多く,ひと言の投げかけで相手を知るきっかけにつながる。

病気のことはどのように聞いていますか?(1)

初回訪問は病院を退院したその日に医師と看護師が一緒に行きます。医療者が家に来るということで,大体の患者さんご家族は退院直後の疲労の中,緊張して待っています。
滞在時間は1時間ほどですが,診察や薬の調整とその説明,訪問診療の流れなど,どうしてもこちらから話す割合が多くなってしまいます。
頃合いを見計らって患者さんや家族には,診療情報提供書やCTなどで,きちんと病院からの情報はいただいていますと断ってから,「病気のことは病院でどのように聞いていますか?」と,この言葉を使っています。

食事量が減ってきたときに「これからは量より質ですね」

病気が進行してくると,どうしても食事が十分に摂れなくなってくる。ステロイドを使用するなど,食欲改善の試みを行うが,それでも不可逆的に食事量が減ってくる状況が訪れる。そのような状況は,患者・家族にとって確実に死を意識することとなり,つらいものである。そして,少しでも多く食べて欲しい,食べるためにはどうしたら良いかと医療者に問いかける。しかし,根本的な解決方法がない以上,その回答に窮することが多い。もちろん,少しでも嗜好に沿った食事にする,味付けや食事形態を工夫するなどの対応はするが,患者・家族の希望に沿った回答とはいえないだろう。

点滴の量を減らしていくとき「身体の器に見合った量で,溢れないように。植木鉢に例えて考えてみましょう」

終末期がん患者の輸液療法に関するガイドラインでは,患者さんの苦痛を増さないために,輸液を絞っていくべきであると示されている。緩和ケア病棟では1日500mL 未満に絞ることも多くある。これは緩和ケアに関わる医療者にとっては半ば常識であり,苦痛緩和のために必要な行為であると理解している。しかし,患者・家族にとって点滴は「生きる」ための命綱のような意味合いがあり,点滴を減らすことは生きる希望を減じ,命の長さも短くなってしまわないだろうかと強い抵抗感をもつことが多くある。この点滴の量を減らす時,患者・家族にそれをどう説明し,どう受け入れてもらうか,対応に困ることは少なからずあるのではないか。そのような時,医療知識の少ない患者・家族であっても,減らすことの意義を理解しやすくするため,イメージしやすい魔法の言葉を使って説明するといい。筆者は魔法の言葉として,「身体の器に見合った量で,溢れないように」「植木鉢に例えて考えてみましょう」というのをよく使う。

120mgが1つの目安です

目の前の患者さんの痛みに対してオピオイドを処方する時,どのくらいの量が必要なのかは誰にも分からない。だから通常,最低用量から開始し,痛みの取れ具合と,レスキューの使用状況から少しずつ増量を行い,至適用量を決定する。たとえば,オキシコドンなら,5mg 錠を1日2回の10mg/日から開始し,15mg(5mg錠を1日3回),20mg(10mg 錠を1日2回),30mg(10mg 錠を1日3回),40mg(20mg錠を1日2回)…という感じにである。われわれ医療従事者にとっては,当たり前のタイトレーションなのであるが,患者さんやそのご家族にとっては,受診のたびに薬がどんどんと増えるという経験が通常はない。このため,オピオイドの増量に対して,不安になったり,拒否的になったりしてしまうことが多いように感じている。1日10mgで始めたのが,2倍,4倍とどんどんと増えてしまうので,「こんなに増やしても大丈夫だろうか?」と心配になってしまうのである。

肝臓は身体の電池です

倦怠感は多くのがん患者が体験する症状である。疲れやすく,長い移動ができなくなっていく。根気はなくなり,昼寝をすることも増える。また通院が困難になってくる。そして,さらにがんの進行とともに全身状態は悪化し,身体の動きが悪くなり,徐々にベッドに寝たきりとなっていく。予後8週間未満となると,1日の過ごし方は変化し始めて,特に残った予後が4週(1カ月)を過ぎると急速に状態が変化する。経験的にも適切な予後予測が可能となるのは,やはり予後1〜2カ月以内になってからで,その時期までは患者によって大きく異なる。予後予測の限界を感じることもたびたびだ。

医療用麻薬

わが国における医療用麻薬の消費量は先進諸国の中で最も少なく,がん疼痛管理が適切に行われていない可能性が問題となっている。原因として,日本人はアヘン戦争や覚せい剤乱用などの歴史から,麻薬恐怖症(opioid phobia)が強く植え付けられていること,さらに戦争中は,「堅忍持久(つらさや苦しさに耐え,我慢強く持ちこたえること)」の精神を叩き込まれており,それが現代でも日本人の心の根底に強く根付いていることが,痛みを我慢してしまう(それが美徳であると思っている)原因といえよう。子どものころ,筆者もよく,母親から痛みがあっても「男の子なのだから我慢しなさい」,38℃以上の熱があっても「それくらいの熱,我慢しなさい」と,言われたものだ。すなわち,「我慢」することが美徳とされてきた。

元気なうちに緩和ケア。私が後悔したくない

緩和ケア病棟への入院は患者にとって一大決心である。しかも,それがあらゆる抗がん剤を投与され,「これ以上投与すると危険です」「よく頑張られましたが,次の手はありません」「もうここではすることがありませんので,転院先をご紹介します」などと言われ,身心ともに疲弊した状態での転院は想像を絶する。
しかし,事前に緩和ケア病棟のイメージがあると,この時の衝撃は和らぐように思う。

病気によってもたらされたことはすべて100%悪かったの?

進行がんなどの生命を脅かすような体験があっても,それによるさまざまな困難や試行錯誤を経た後にその困難を乗り越え,病前の時以上に前向きにたくましく生きている患者さんやご家族に私たちは日常的に出会う。困難を乗り越え前向きに生きていく私たちに備わった力のことをレジリエンス(resilience)という。レジリエンスは個人差が大きいとはいえ,人なら誰にでも備わった内面の力ともいわれる。普段の緩和ケア診療において,患者さんとそのご家族にもともと備わったレジリエンスをどうやったらうまく引き出すことができ,これを強化できるのか,というきわめて重要な臨床疑問がある。

あなたがそこにいるだけで十分に意味がある

がんなどの治癒困難な進行性疾患では,患者さんは身体機能の低下に次々と直面する。この時,自分の身の回りのことでさえできなくなってしまった自分には,生きている意味や価値などはないという絶望感(スピリチュアルペイン)を抱く場合が多い。
日頃,われわれはさまざまな人やモノの価値や存在意義について,それが「何かの役に立つかどうか」の尺度で評価している。何かを達成すること,成し遂げることに大きな意味があるという人生観で生きてきた人ほど,そのような絶望を抱きやすいだろう。医療者の側も「役に立つかどうか」という価値観や尺度にどっぷりつかっていると,たとえば寝たきり状態で回復の見込みのない患者さんが「自分には生きている意味がない」と心の叫びを訴えた場合に,どのように声かけしてよいか分からなくなってしまう。そこで,思い出してほしい言葉が「あなたがそこにいるだけで十分に意味がある」という別次元の価値評価尺度である。

患者さんのためを最も考えた選択だったと思います。私もその状況であれば同じ選択をしていたかもしれません

がんなどの重い病気を抱えている患者の家族の多くは,さまざまな「後悔」を抱えている。特に,わが国のがん患者の遺族を対象とした研究では,その心理的苦悩の中で最も高い頻度で認められたものが「後悔」だったという報告がある。「後悔」については日常的に誰もが経験しているものではあるが,臨床の場面で患者や家族が苦悩として語る時,医療者はその対応に悩む状況も少なくない。筆者は,国立がん研究センター中央病院において「家族ケア外来」という院内外のがん患者の家族や遺族を対象とした専門外来を行っている。そして,家族ケア外来を受診したほぼすべての遺族の方々は,何らかの「後悔」について語り,それについて悩んでいる。

◆ この文献の続きは、下記書籍からお読みいただけます。

Vol.26 Suppl

緩和ケア 2016年6月増刊号

\3,000(税別)
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あなたのためにできることがあると私たちは思っています

筆者が働いている病院は,県指定のがん診療拠点病院として,地域のがん診療の一翼を担っており,外来・入院ともに,数多くのがん患者さんが治療に取り組まれています。緩和ケアの機能としては,緩和ケアチームと,緩和ケア外来,さらに10床程度の規模ながら,症状緩和とエンド・オブ・ライフケアのための緩和ケア病床もあります。つまり,がん治療に直結した場で,さまざまなフェイズの緩和ケアを提供しています。そのような環境の中,がん治療医から,あるいは受け持ち看護師から,「緩和ケアについて説明して欲しい」と,緩和ケアチームや緩和ケア外来に依頼が寄せられ,「抗がん治療を継続することが最適といえない状況になった」患者さん・ご家族と対話する役割を担うことが,しばしばあります。

◆ この文献の続きは、下記書籍からお読みいただけます。

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緩和ケア 2016年6月増刊号

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