臨床で求められていることは,これまでの「問題を含む日常からの変化」である。こうしたわずかな変化に着目して積み重ねることで,大きな変化になることがある。しかし,わずかな変化は,日常に余裕がないヒト,たとえばがん罹患といったライフイベントにおける壁にぶつかったヒトには,気づかれないことが多い。
解決志向アプローチという心理療法にミラクル・クエスチョンという質問法がある。正式な質問法は,「これから変わった質問をします。今晩,あなたが眠りについている間に奇跡が起こって,あなたの問題がすべて解決してしまったとします。明日の朝,目が覚めた時にいつもと違う様子から,奇跡が起きて問題が解決してしまったことを知ります。どんな違いからそれに気づくでしょう?」というものである。この質問の意図は,現状と解決像の差異を明確にすることで,解決への短期目標を立てやすくすることである。
人間の欲望は果てしがない,1つでは満足できず,次々と欲望が沸いてくる。しかし,その欲望が叶えられなくなると,人は悲しみ,苦しみ,後悔する。たとえば,いくつかの選択肢から1つだけしか選択できない場合,明らかに満足できる選択肢を選びたいと人は思う。選んだ結果が期待以上であれば満足できるが,期待を下回れば不満が残る。特に,選択する時から結果に満足できないことが分かっている時は,なかなか決めることが難しく,決めてしまった後も,選んだ選択肢で本当に良かったのか,違う選択肢を選んだら結果はもっと良かったのではないか? など,悩みが続く。
筆者の「どちらを選ばはっても,必ず後悔するもんですわ」を使う意図は「一生懸命考えて考えて,悩んで,苦しんで,その果てで選んだことには,その結果がどうであれ,選んだほうが最良ですよ」を伝えるためである。
人は,自分が最も輝いていた時の自己のイメージを抱きながら生きているのかもしれない。しかし,他者にそのことを理解してもらえる機会は非常に少ない。齢を重ね,壮年期や老年期を迎えると,あの時は良かったとか,あの時に戻りたいと回想するのであろう。ましてやがんにより命が限られた状態になった患者さんが,最も輝いていた時の自分や大切にしている自分の心象を誰かに知ってほしいと願うのは,ごく自然なことであると思われる。
患者と医療従事者という関係性と限られた時間の中では,その人自身を深く理解することは容易なことではない。しかし,患者が大切にしている“自分”に思いを馳せ,われわれが感じたことを伝えることで患者が本来の輝きを取り戻すきっかけになることもある。
大事な人が亡くなるということは,その家族(遺族)にとって,大変な衝撃である。どれだけのことをしても,後悔が残り,喪失感と悲嘆の中で生きていく。どれだけ時間が経っても,どれだけ慰められても,こみあがってくる悲しみは消せるものではないであろう。
だが,看取りまで一緒にケアを行い,看取りの場面に立ち会わせてもらったわれわれは,その家族が少しでも悲しみを減らして明日からも前に歩いていって欲しいと願う。
この言葉がどれだけその家族の癒しにつながっているかは分からないが,それでもやはりこう声をかけてしまう「あなたがいて安心していましたよ」。
この言葉は自分が実際にかけられて,とても救われた思いになったひと言である。人は人生の中で,それまでの価値観やアイデンティティーを崩されるような体験をすることがある。がんと診断されることもそのうちのひとつあろうし,がんの治療によって自身のボディーイメージが変化したり,日常生活上での制限が加わったりする。病状の進行によっては今まで出来ていたことが出来なくなったり,何か大切なものを手放さなくてはいけなくなったり,そんな体験によって自分の価値観の変更を迫られたり,アイデンティティーが崩れてしまうことがある。
意思決定やアドバンス・ケア・プランニングなど,意思決定支援が重要視される中,“決められなくてもいいよ”という言葉を紹介することに戸惑いも感じている。しかし,患者さんがいろいろ考えても決められない状況,決めたくない思い,今は決めないという意思も大事にしていいのではないかと考え,この言葉を紹介することにした。
大切な家族を亡くし悲嘆にくれている遺族は,亡くした家族に対して後悔や自責の念がついてくる。ことさら,家族の最期の時間が少しつらそうだったり,急な病状の変化で最期が急だったりすると,余計に遺された家族は心理的反応が強く生じていることが多いように思われる。
遺族を対象にした外来を開いていると,「気持ちの整理がつかない」という主訴で来院される方が多い。特に,家族の死に対して何らかの心的外傷体験があった場合,遺影を見たり,記念日を迎えたり,亡くした家族の知人などが急に連絡してきた場合に生じる自分の気持ちの強い動揺にいらつくことも多い。「すでにどうすることもできない家族の死」を受容できない自分に苛立ち,動揺を周囲に見せてしまったことに苛立ち,自分がかくも弱い人間であったのかと絶望することはさらに強い心理的動揺を生んでしまう。
「お休みになられていますか」に込めた筆者の意図は,人は話したいことを話す。聴き手がある意図をもって尋ねたとしても返答は異なり,思いもよらなかった魅力的なストーリーが展開されていくことがある,ということである。なので,この言葉を使う時,筆者は少しドキドキして話し手の言葉に耳を傾けている。初めての「お休みになられていますか」は言葉の通り(?)「夜,眠れていますか」と尋ねたつもりだったが,返ってきた言葉は「昼間は横になっていることが多くてね」と始まり,日常や病前の生活などに及んだ。朝の回診で「よく眠れましたか?」とルーティンで尋ねた時,「眠れたよ」と硬い表情でそっけなく返された。この人の心の内を(昨夜は眠れなくてもう少し寝かせて欲しい。もう何度聞くの,いい加減にしてよ)と想像して終わるしかなかった。
ある時,突然に身体の中で自己主張を始める「がん」は,言葉としても強いインパクトを与えるものだと思う。診断を伝える時でも,「がん」は侵襲的な言葉であるために,一度は診断名をしっかりと伝えるために用いても,2回目以降は「腫瘍」や「病気」といった言葉を用いることが推奨されている。筆者も日々の臨床実践では,がんの病期にかかわらず,患者とのコミュニケーションで「がん」という言葉を多用しないよう配慮しており,その代わりに「居候」という言葉をしばしば使う。その意図するところはもちろん,患者に過度な侵襲を与えないことである。
「抗がん剤をいつやめたらよいのか(いつまで続けたらよいのか)のエビデンス:治療の継続・中止に関わる腫瘍内科医の苦悩〜意思決定に腫瘍内科医はどう関わったらよいのか?」というタイトルで原稿依頼をいただいた。最近,緩和ケアやサイコオンコロジーの学会や研究会で,同様のテーマの講演依頼をいただくこともある。
私のような腫瘍内科医の意見を聞こうとしてくださるのは,本当にありがたいし,緩和ケアと腫瘍内科の目指すところは同じで,がん患者さんのためにともに取り組むべきだと考えている私としては,緩和ケア医の先生方と,こういう機会を通じて率直な意見交換をし,両者の距離を縮めながら共通の方向性を考えられるというのは,とても素晴らしいことだと感じている。
終末期の治療や療養に関連した患者と医療者間のコミュニケーションにはしばしば困難が伴う。例えば,化学療法を受けている終末期がん患者においては,その効果に関して過剰な期待をもっている場合も少なくないとされる。一方で,医療者はしばしば終末期に関する議論は難しいと感じており,その理由の一例に,患者の不安を高めたり,希望を失わせることへの怖れがあるとされる。死期直前の化学療法は患者のQOLを低下させるとの報告もあることから,化学療法の中止や緩和ケア,療養場所の選択などの重要な意思決定がよりよい形でなされるように,患者と医療者間のコミュニケーションを一層支える仕組みが求められる。
医療における「望ましい」意思決定のあり方は,時代とともに変遷してきた。近年では,医師と患者が話し合い, 協働して意思決定するShared decision modelが推奨されている。この方法では,医師は複数の選択肢と,それぞれのベネフィットおよびリスクについて患者に情報を提供する。そのうえで,最終的な選択肢を選ぶ理由も含め,医師と患者で意思決定の過程を共有することとされている。
治癒が不可能な化学療法中のがん患者の70〜80%は,治癒が不可能であることを理解していないことや,終末期の約70%の患者は意思決定が不可能な状況にあるという欧州の研究報告から,早期からの緩和ケアの実践に並行して,患者の意向を最大限に尊重したアドバンス・ケア・プランニング(advance care planning:ACP)の必要性が示唆されている。
日本では,がんに関連した補完・代替療法が多く認知され,がん患者のおよそ44.6%が利用し,がんの進行抑制効果を67.1%,治癒を44.5%,症状緩和を27.1%の人が期待していることが明らかになっている。その一方で,西洋医学中心の医師は補完・代替療法に関して懐疑的であり患者の選択にブレーキをかける要因となっている。さらに,補完・代替療法は多種あるが,治療の効果は根拠が明確にされていないものも多く,治療選択は慎重に行う必要がある。
在宅訪問診療は,病院からの患者の紹介から始まることがほとんどである。患者・家族は病院で在宅療養を紹介され,当院の調整担当者が在宅医療について説明し,同意を得たうえで往診が開始される。
調整担当者や訪問した医療者(医師・看護師)が,「病院ではどのように病気のことを話されてきましたか?」と聞くと,「今は体調が悪いから,自宅で療養して体調が戻ったら,また,治療しましょうって言われて……」と話された患者さんもいた。また,病院では抗がん剤は無理だと説明されたが,まだやれることはあるからと保険適応外の治療や民間療法に期待している患者もいる。
抗がん剤治療をどこまで継続するか,どこで中止にするかという意思決定は,患者の人生を左右する大きな意味をもつ意思決定となる。患者・家族にしてみれば,死を意識するきっかけにもなり,大きな衝撃であることを医療者は忘れてはならない。この意思決定の多くは,がん治療医と患者・家族の間において行われるが,緩和ケアチームにおいても大切な役割があり,その関わりにおいて筆者の考えるコツをまとめたい。
進行期がん患者において標準的な抗がん剤治療が奏功しなくなり,全身状態の憎悪のため抗がん治療の継続が困難になっても,抗がん治療中止の話がなされないまま治療が継続されることがある。抗がん剤治療の中止は,患者家族だけでなく医療者にとっても困難を伴う決断である。このような時,緩和ケアチームはどのようにがん治療医や病棟看護師と協働し,患者・家族の意思決定支援に関与すればよいのか,考えてみたい。
抗がん剤治療の中止を伝えられた患者は,初めてがんを伝えられたときに比べてがんに対する知識を蓄積しているため,自分が置かれた状況を否認することもできず,自分のいのちと向き合うという厳しい現実の中に置かれることになる。患者はこれまでのがんとの向き合い方を土台としながらも,治療の継続/中止の選択を求められる。この選択は,患者にとり自分のいのちについて模索することに他ならず,治療の継続という「生きている証」と治療の中止という「受けとめがたい現実」との間で揺れ動くことを余儀なくされる。このように揺れ動く患者の心にどう寄り添い,サポートすることができるかについて筆者の経験を踏まえて紹介する。
侵襲の少ない抗がん治療が次々と開発され,患者家族の治療への期待も高まるなか,国際的に「抗がん治療をいつ・どうやって中止するべきか」は大きな医学のトピックになっている。本稿では,抗がん治療の中止と意思決定研究に関する国内外のエビデンスを紹介し,オーバービューとしたい。
私は現在,米国東部フィラデルフィアにあるペンシルベニア大学病院のチャプレンレジデント(1年間の研修生)です。チャプレンはスピリチュアルケアを提供する宗教者の専門職です。米国では病院,ホスピスなどの医療機関のほか,学校,軍隊,刑務所,警察,消防,プロスポーツチームなどにチャプレンが配置されています。もともとキリスト教会で生まれた職ですが,ユダヤ教,イスラム教,仏教などのチャプレンもいます。